文字から感情が抜け落ちる話
こんにちは、私です。
いろんなひとにあこがれてはじめたブログをさぼっていました。今日は書くよ。
なぜ今日は書くのかと言えば、一つはあなたに伝えたい言葉があったからで、もう一つは現実から目を背けるためです。現実は目を背けるたびに手に負えなくなるのでタチが悪いですね。
筆不精に陥っていた理由はいくつかありますが、その大きな理由として「書くほどに感情が目減りしていった」というものがあります。
@tos 昔から、モノを書き連ねるとポジティブな感情が文字に乗って漏れ出ていく人間だったので、筆が走った文章は見るからに楽しそうなものになるかわりに、書いた後自分自身の感情が無になる性分でした。強力に無なので書けません。
— おのりん (@aonorin33) 2016年12月26日
今日はこれの話をします。
面白いもの、興味の対象になるものはひとによっていろいろあると思います。
音楽についてでも、数学についてでも、言葉についてでも、何だっていい。感情が動けばいい。
そうして個々に持ち合わせた好きなものについては、人に共感して欲しくて、またこの感動を共有したくて、各々のかたちで発信します。
こうして発信したものは自らの手を離れ、「書かれたもの」になります。あるいは「読み解かれるもの」になります。
私が不在になります。
語ることで何が起きるのでしょうか。
ひとはよく、憂さ晴らしに愚痴を言います。
つまり、マイナスの感情を言葉に乗せて自分から取り除いています。人間は気分がマイナスの時にはシステマティック(=論理的)な処理をするので、当然といえば当然ですね。嫌ななにかを理性に分析させることで、解決の糸口を見つける。適応のカタチです。イライラしている時には細かいアラが見えてくるでしょう?それです。
それはそれとして、好きな感情が有り余るときの話をします。
溢れんばかりの感情を筆が走るに任せて文字に起こす。好きが溢れて仕方ないから語彙が湧く、比喩が浮かぶ。次々に言葉を綴る。そうするとどこかで、ぱたりと次の言葉が出なくなる瞬間がきます。どんなに好きでも。
私はこれを、感情の枯渇と呼んでいます。
ひとによっては何万文字でも書ける人がいるのかもしれません。でも、私は枯渇します。
高校で芝居をやっていた頃、よく言われました。
「心の中にある器に感情が溜まっていく。外からわからなくても器の中にぽたりぽたりと感情が溜まって、ふちのぎりぎりで表面張力が働くところまで行ってもまだ漏れない。でも最後の一滴が落ちた途端に流れ出していく、この溢れた感情が台詞なんだ。」
言葉には感情が込められています。
愚痴を言えばマイナスの感情は言葉によって溢れ出し、自身から抜け落ちていく。これは健全な作用です。
一方で、幸せな記憶も素敵な想いも、文字に、言葉にすることで自身から抜け落ちていく。快感情を消費する感覚。これは歯がゆいものです。何かを語るために、自分の感情を削ぎ落とすのは、現実を噛みしめるようであり、すこし悲しくもあります。
自分の好奇心を形あるものに残したい。今、自分の中にある好奇心を削りたくない。
そう思って一か月ほど無でいましたが、振り返ろうとしても振り返れません。瞬間の感動と、保存される感動のトレードオフが成立しているようです。
どうせトレードオフなら、せっかくなので書こうと思います。
感情を削り取って、未来の私とあなたが楽しむために。