あおのりん!

おのりんです。なにとぞよしなに。

忘れたいこと

エンタメというものが死んでしまって一年経った。まだ死んでないと意地をはっている大人はいても、エンタメにこれから飛び込む人は減ってしまった。私も人よりいじっぱりな自覚はあるけれど、板の上に立つ将来についてはもう諦めるしかなかった。今年度もオーディションが中止となった今、ダンススタジオに通う19歳の私たちにはプロとして踊る道は残っていなかった。

私がバレエをはじめたのは3歳の頃らしい。毎週毎週教室に行って稽古をして、たまに発表会に出て、それから稽古をして、発表会に出て稽古する。そんな生活を10年もしていたらそれなりに上手くなった。私にやる気があったとかではなくて、それだけずっと稽古をしていただけだと思う。もしかしたら子供の頃から才能があったのかもしれない。そんな感じでずっと稽古ばかりしていた時期、13歳の春に教室の工事だかでレッスンが休みになって、家族旅行でディズニーに行った。稽古を休んで旅行に行くのは初めてだったし、おばあちゃんの家じゃない所へ家族みんなで泊まりの旅行をするのも初めてだった。そのときディズニーシーでショーに出会ってしまって、私のやりたいことは決まった。今でもはっきりと思い出す。シアタージャズ、ロックダンス、ヒップホップ、コンテンポラリー。ひとりひとりのダンサーがどのジャンルの振りも美しく、感動のせいで私が泣いていたのをみてお父さんが慌てだしたのも覚えている。それからは教室の先生にお願いしてコンテンポラリーのレッスンを増やしてもらったり、シアタージャズのダンススタジオにも通うようになった。レッスンの邪魔だから中学から部活は入らなかった。遊ぶ予定がつかないからか友達も増えなかった。それでも取り憑かれたようにレッスンに打ち込んだ。私はなんとしてもあの舞台に立ちたいと思ってしまった。

たぶん私はダンスが得意だった。数年のうちにクラシックバレエだけじゃなく、どのジャンルも相当踊れるようになっていった。いろんな振りを覚えて、流行のジャンルも勉強して、絶対に採用させるためになんだってやった。きっと同世代で私より踊れる子はいないだろう。きっとこの世界で私より踊りたい人はいないだろう。そう思っていたし、そう思われて当然だった。高校ではもっと打ち込んで、いろいろな賞は数えきれないほど獲った。勉強の成績はよくなかったけど、それだけずっと稽古していた。私には踊る将来しかなかった。というより、踊る以外の道なんてないと思い込んでいた。実際には他の将来を見つめるのが怖くて、他の全てから逃げてレッスンに打ち込んでいた。そうして振り返ったとき、私にはダンスしか残っていなかった。それでも舞台の上だけは私の居場所になると信じていた。

高校卒業を控えてオーディションを受ける年、エンタメの世界は壊れてしまった。

 

今もレッスンは続けながら、先生の手伝いで子供たちの指導をさせてもらっている。

新規のダンサーオーディション再開の気配はまだない。

踊る子供たちをみていると、あの春にはじめて出会った舞台を思い出す。

立てなかった舞台を、忘れられる日は。