あおのりん!

おのりんです。なにとぞよしなに。

エサやりがへたくそ

秋も終わり、公園のベンチで過ごすには肌寒いを通り過ぎた。週明けには直さないといけない自分で仕込んだわけじゃない不具合のことをぼんやりと、そして焦って考えながら、遠く視界の端に猫とおばさんが映る。あれはなんだ、餌付けか。コンビニで買ったらしいネコ餌のカンヅメをぽんと置き、集まってくる野良猫をおばさんが満足そうに眺めている。こんな忙しいときに厭なものをみてしまった。

残念なことに人間には、人に食品を与えると満足する機能がついている。なんだろうね。祖父母が孫のことを常に空腹だと思いこんでいるかのようにお菓子を与えるアレ、思いやりじゃなくて娯楽でやってるって自覚して欲しい。きっと人類が共同体を維持するために必要な機能だったことは想像できるし、餌付けが楽しいのは共感できるけど、自分の欲を満たすための行動だってことに気付いてくれ。

思考が共同体の成り立ちへと旅立つのを抑えて、視界に捉えたネコのことを考える。いや、おばさんのことを考える。きっとこの餌付けを促す欲求は、本来であれば共同体維持のためにある。その餌付け欲をこうして野良猫に向けて発散するということは、この人は自分の施しを受け取ってくれる人間が周囲にいないのだろう。まして自宅で動物を飼う余裕もなく、街中にいるネコにエサやりをして過ごす。

野良猫が多い地域はきっと、野良猫が誰かにとっての福祉になっている。行き先のない欲求がネコに向かい、野良猫を増やす。ネコが自制心を失った住民の存在を周囲に知らせてくれる。だれかの寂しさがネコに餌を与える。ネコの形を纏って街に広がっていく。いちばん楽しい場面である餌付けだけを寂しさを埋めるために使われて、ネコは街に帰る。そんな光景が急に浮かんでしまった。

餌付けはこんなに楽しいのに、自分にエサやりするのがこんなに難しいのはどうしてだろう。三度の飯が三度の飯より好きなデブの英才教育を受けた私でも、ひとり分のご飯を用意して自分に食事させるのが面倒になる。面倒になるというより、起動する条件をなぜか満たせなくなってしまう。餌付けスイッチを自分用につけたいのに、なぜか動けない。自分に給餌するのが退屈でどうしようもない。

ひとりぶんの食事を自分で作ろうとすると、大抵どうしようもない悲しい粗末な食事か、作りすぎたカロリーの暴力が出来上がる。人間の一生は3万日も無いので、人生10万食すら体験できない。なのにその貴重な食事を曖昧な粗食や暴食に費やしたくない。そんな消極的な考えが積み重なって、間違えたくないから給餌したくないって理由をいまでっちあげた。ほんとうは理由なく面倒だからやりたくない。

そういえばお昼ご飯が遅かったからか、まだ夜ご飯を食べていなかった。餌付けする相手もされる相手もいない夜は面倒だけど、それでもお腹は空く。お腹がすいたせいか、寒さが厳しくなってきた。はやく自分へのエサやりが上手くなりたい。