あおのりん!

おのりんです。なにとぞよしなに。

手癖で台本を書くんじゃないよ

こんにちは。私です。

最近どうですか、台本書いてますか?別に小説でも創作実話風ツイートでもなんでも良いんですが、ふたり以上の人間を作中で会話させてますか?

私も高校演劇に浸かっていた頃は脚本書いたり掌編書いたりしてましたし、今も気が向いたら書いてます。最近もカクヨムにこんなの書いてました。

駄目なひと - 短編集:ゆるやかな癒し(遠嵜結乃) - カクヨム

これ書いたあと「こういうのって、どんなこと考えながら書くんですか?」と聞かれたことがありました。

これが驚くべきことに、無なんですよね。

無の状態で、考えずに書きものをするというのがどういうことか、実際に執筆の様子を思い起こしてみましょう。

人物1と人物2を、喋ることが自然であるような空間に配置すると、なにもしなくてもどちらかが喋りだします。そうしたら、人物1または人物2がリアクションをとるので、もう一方がリアクションに対してReリアクションをとります。あとは適当なタイミングでオチになるように祈りましょう。

以上、なにも考えてない、脊髄反射で会話する台本の出来上がりです。

 

私、このタイプの凡庸な、時間の無駄でしかない会話劇が嫌いなんですよ。作る方は楽ですよ。妄想の書記になって議事録取ればおわりなので。ただ、この方式の登場人物は、自由意志を持たない場合が多すぎます。

演劇における会話、または物語の台詞は、いくつかの人間の限界を超えることができます。たとえば、意味もなく聞き返されることがないとか、人の台詞に食い気味で返すときには意図があるとか、馬鹿の役でないならば発言の内容を完全に理解するとか。

ここで大事なのは最後のひとつ、理解力です。

物語の登場人物は過剰に頭が良い。相手の発言の意図を考える。相手にとって善であろうとする。相手の反応を予想して自分の利を得ようとする。ちなみにこれはあなたにかける呪いなんですが、SFと呼ばれる物語での実現不可能な技術的な嘘よりも、恋愛や日常に分類される物語で人間の常識を超えたコミュニケーションが行われる方が多いです。なのに、私たちはこの会話が実現不可能だとはあまり思わない。

私の知る限り、現実の人は何か発言するときには「相手から善に見えるまたは自分に利があるから」ではなく「その瞬間に思い付けたから」発言します。ほとんどの会話はそうですし、現実の人間がこの水準から脱却した会話をするのは極めて困難です(私の言語能力が発達していないだけで、たいていの大人には可能だったら残念ながらこの記事は不要になります)。

ただ、普通の人でもワンランク発達した会話をする方法はあります。文字を使い、時間を味方につけながら、脊髄反射ではないコミュニケーションをすることです。

台本を書くことの利点がここにあります。役者と役者を舞台に置いて、即興芝居をさせたとします。そこでは生のリアクションはあるかもしれないですが、相手の意図を考えたキラーパスを投げることはほぼありません。良い役者であっても人間の限界はなかなか超えられません。

だから台本を書きます。

 

お客さんや読者は、人間の能力を超えた会話が目の前で起きていても受け入れてくれます。そして、目の前の会話を楽しみます。それが議事録ではなく、立ち聞きでもなく、物語だから楽しみます。

ですから、手癖で台本を書きそうになったそのときは、時間を味方にしながら次の台詞を書いてあげてください。

 

これは自戒です。