あおのりん!

あおのです。なにとぞよしなに。

せめて乗っ取りたくて

こんにちは、私です。

 

私がぼんやりと何かについて考えている時。それは往々にしてどうしようもなく切羽詰っていたり、何かから目をそむけている時なのだけれど。とにかく、何かを考えるときに、私の中には明らかに、私じゃない視点がいる。私じゃない視点は私の使わない口調で私に説教、あるいは私の体験していない自分語りを始める。その「誰か、もしくはなにか」は上から目線の語り口だったり、複数人が登場してコントを始めたり、状況に対して芸人めいたツッコミを入れたりしていく。そして大騒ぎして帰っていく。非常にばかばかしい。私じゃない視点とはいえ所詮は私の脳の生成物なので、私にとっては腑に落ちる結論を導き出してくれることもある。まあ、多くの場合はよくわからないことを私に押し付けていく。そんな話。

 

”表現したいことがあるから作品をつくる人なんて、ある程度なにかを突き詰めることができた「ちゃんとした」人間のやること。人はただ単に、黙っていられないからモノを作り出して、発表してしまうの。この段階は幼児や児童がまっしろなノートに好き勝手な絵を書き殴るのと変わらない。文化的排泄欲求でしかないの。悪いことではないけど、生み出されたものは作品ではないし、自分しかその中にはいないの。わかるよね?

そこから一歩だけ踏み込んで、友達に見せるための何かを作る人たちがいる。人によっては140文字以内に見せたいものを押し込める遊びが好きな人もいるでしょ?この段階まで来ると、モノを作るのに使っていい道具が限られていく。あの子が知ってるコトバで書かないといけない、これはまだ教えてないから分かってもらう部分を作らないといけない。こうやってつくられたものは、あなたが作ったというより、あなたの中にいる「あの子」を写し撮ったものになる。二人だけに通じる秘密の言葉、あの場にいたみんなだけの思い出を掘り起こすきっかけ、あの映画のあの場面。そんな共通のコードだけが、モノづくりに使える道具。だからこんなやり方じゃ、手の届くだけの人にしか伝わらない。

もっと踏み込んで。さっきまでは、あの子に意味が届くだけの世界だった。次にあなたは、あの子にどう思って欲しいかを操作する。問いには答えを、結果には原因を。納得の積み重ねで行きついた結末には疑いの目を向けられない。人は物語に触れると自分のアタマの中でエミュレートする。自分と作品が適合したときに、自分のことが書いてあると思ってしまう。感情が動いてしまう。だからできるだけ一般的なことを、可能な限り詳細まで具体的に描いて。それだけでいい。使える道具はさっきと同じ、お互いにわかるコード。一般的ってことは、何を代入しても動く仕組みが欲しい。できるだけからっぽな箱を、豪華に飾って。そうすれば人の欲求だって煽れる。自分をしまう綺麗な箱。そんな作品を創って。”

 

って、私のなかの誰かが言ってました。うるさいのでこの人を頭の中から退去させたいです。